反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本の老人の最期は一人で死んではいけないのだ、一人で死ぬことは不幸ということになっている。ほんとうか?

        W。高齢者の多く住まう約130世帯の集合住宅における1年間の高齢者の死亡者5名のうち在宅死 3名は警察の現場介入の必要な「事故死」扱いだった。

Wは住宅全体の自治会費(共益費)を集め記帳し用途ごとに随時出金する立場にいたためそれぞれの事情も 立ち入って知ることになった。

高齢者の抱える課題はこの間の反俗日記で 度々取り上げてきたことでもあり、いろいろと思いを巡らせる貴重な機会であった。

政治や制度、環境限定条件を踏まえるにしても、それらを改善するにはあまりにも長い期間がかかりすぎるし、

>厳然たる客観的判断によれば

この状態は全国的に拡大し悪化するといわざる得ないから、ある種の存在論的な思想ー哲学的結論を用意するほうが賢明と考えた。

3名の死は現在の制度上、警察現場介入を不可避とする事故死扱いになるが、

思想ー哲学としては自然死と したほうが主体的な受け止め方である

それは絶望や諦めではない。

そこにある種の不幸は確認できる。その意味で不幸と不幸を結びつけることの可能性はある。

*がしかし、Wは不条理と受け止める。

 不条理とは解決できない永久革命の課題であり、人間を人間らしくし、戦いに立ち上がらせ、明晰にさせる動因である。

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反俗日記6月1日 「諸君は、幸福の一致ばかり説くが、しかし誰も、不幸を一致しようとは言わぬではないか」。(信長と家康の関係をトゥーキュディデース『戦史』から引用して) 秋山駿 『信長』 新潮社 1996 まろまろ記より引用。

 長くなるが反俗日記の以下の全文を引用する。 反俗日記 2019/5/25(土) 午後 3:08

       <要介護認定者の認知症自立度~W、介護の困難性~と要介護度>
>W。Ⅱb(医師が主治医意見書を書く際に「内服管理が自分で出来るか出来ないか」で「Ⅱbレベル」の分岐点となる事が多いです。

>服薬管理が出来るならⅡbより良い状態、逆に出来ないならⅡb以下引用終わり~~

  反俗日記本文引用 

   ↓

>>なお、ⅡaとⅡbの違いは認知症理解の肝。
科学とは常識的理解の真逆のことが多い
認知症の人が症状を有りのままさらすことができるのが、一番身近な人の前。
外部には取り繕いがあるので~~関係性の中に生きてきた人間として当然の行為~~症状の実態が見えにくくなる。 あとで赤裸々な実例を示す。
 
 認知症の啓もう教科書(厚労省推奨オレンジキャラバン)はこの点を前面に押し出していない。
そもそも当局は地域啓もうを本気でやるつもりがない。講演活動程度。本物のボランティア精神の伝統がないところでどうやってやるのか?

古代中国に倣った大きな家族単位の人心掌握でやってきた歴史(戸籍制度はその典型。なお日本固有の戸籍制度については徹底的に調べたので記事にする予定。一つのヒント。韓国は2000年代中盤、戸籍制度を改めた。なぜできなたのか?行動する市民革命の産物であり徴用婚問題を可否を含め前回の記事で少し論じた。)の否定になり、日本の従来の制度には大きな限界を知っているからともいえる。

>個々のキャラクター重視は制度上できない。(明治維新クラスの改革をもう一度は無理)
認知症キャラバンの教科書は地域見守りについては手薄だし、講義はスルーしていた。地域の見守り活動は教科書好みの実例が見当たらないから、耳障りの良い空文句や底の浅い技術的人間関係形成に流れる。

仏教思想そのものが宗教教義として、

>さらに釈迦の人生そのものがはグローバリズムにミスマッチではないのか
葬式仏教は日本型封建制の「発明」だが(曹洞宗に始まった。武士階層の本格的位階制構築に必要だった、とみるべき)、

ローマに弾圧され処刑の最期を遂げたキリストと

弟子たちに見守られて息を引き取った釈迦を比較すると後者の最後は教祖として俗物の極みで~大往生~

少子化高齢化、個々が際立つ小規模家族ユニットのトレンドの中で

*その環境が欠如しているにもかかわらず未だに大往生が通念化する根拠になっている。

人間(動物)は環境に適応しずらくなると委縮する。

グローバル資本制の下部構造と上部構造のライフスタイルが一致していないから、委縮して繁殖を控えるようになる。

それで外国人労働力導入ということになるのだが、欧米に対して周回遅れも甚だしい経済至上主義満開といわねばならない。

令和などという不気味な年号をよくもまぁ選択した、モノだと感心する。これは日本古代半奴隷制国家時代の匂いプンプンなのは歴史に関心のあるものなら当たり前の感性として抱くものだ。

 日本の老人の最期は一人で死んではいけないのだ、一人で死ぬことは不幸ということになっている。ほんとうか?


実際に死ぬるときは周りとの関係性は途絶えて単体で物化するのであって、神(死)と向かい合える人は神と向かい合うはずだ。人間であること、から解き放たれて自由になるのだ。W流に言えば自覚せる物質が本来の姿に戻る。

 認識することと実行の間には事柄が大事であればあるほど深い溝がある
その場合、それを超えてやっている人を大事にすることから始めなければならないと思うが、現場ではそうなっていない。

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                 高齢者の終末期ケアのあり方について      

 ~老人の専門医療を考える会の見解~老人の専門医療を考える会 2006年9月

    5。終末期において治療を中止する際の法律上の解釈と問題点
  「異状死」の問題。
>死亡する24時間以内に患者を診ていなければ
>あるいは疾患の経過から予測されない死亡の場合はすべて「異状死」とみなす現状は、
在宅死」をいっそう困難にしていると考える。

この点については管轄の警察との打ち合わせも必要であろうが、法的なガイドラインを早急に見直すことが必要である。W。いまだに改革はできていない。

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     終末期医療・緩和ケア ~四つの全人的苦痛~

   問2あなた自身が高齢となり、脳血管障害や痴呆等によって日常生活が困難 となり、
さらに治る見込みのない疾病に侵されたと診断された場合、どこで最 期まで療養したいですか。 

一般国民 病院:38% 老人ホーム:25% 自宅:23%

医師・看護職員 自宅:49% 介護療養型医療施設又は 長期療養病院:23%

介護施設職員 自宅:38% 介護老人福祉施設(特別養 護老人ホーム):26%

自宅で療養したい理由
住み慣れた場所で最期を迎えたい」(般62%、 医66%、看65%介70%)、
最期まで好きなように過ごしたい」(般47%、医57%、看66%、介61%

W。一般国民は住み慣れた場所で好きなように過ごして最期を迎えたいが、それができる収入がない、と自覚している。

介護職の住み慣れた場所で最期を迎えたい、70%は今の日本の施設の現状の反映。

カネの多寡の在り様が最後の環境に大きく影響する。

でも人間の最期にはそれを超えた次元がある、と知らねばならぬ。

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  実例 その1。

レビー小体型認知症と思われる妻との1対1介護で夫は急激に病んでいった。

最初、発症した脳梗塞は軽度で1週間余りの入院で自宅復帰した。

1年ぐらい経過して前立腺がんの手術をしたが完治せず薬物投与を開始した。

腎臓病が悪化して1週間に3回透析治療に通院するようになった。

喉頭がんを発症し薬物治療をするも大掛かりな手術になり、重度認知症の妻を在宅に残し長期入院。

ところが在宅中の妻は室内火災で焼死した。

二人の子息がいたが、一人は働き盛りなのに脳梗塞を発症し著しく運動能力を低下させ親の面倒を見る余裕がなかった模様。

もう一人の子息は遠くで働いていて疎遠になっていた。

一人住まいの認知症の焼死は火災事故としても大変だった。

   実例その2。

上記の火災事故の大騒動の最中に夫が心疾患事故で死亡したが、同居する認知症の妻は尾西を知らないまま数日経過し、近隣のひとの安否確認で布団の中での死亡が確認された。

  実例その3。

実例その1の火災事故の半月ほど前に、糖尿病を悪化に起因する症状の一つである心疾患突然死によって一人住まいの老女がなくなった。Wも知っている方だった。

体が次第動かなくなり、近所の世話できる高齢女性が気にかけており、亡くなるまえに買い物をしてあげていた。この女性が応答がないので室内に入ったところ、布団にうつ伏せになりこと切れていた。直接の死因は窒息死と聞いた。

>その他の死亡場所は病院と施設である。

3つの実例は上記の云う異常死、事故死扱いであった。

実例その1はDNA検査による入念な操作が行われ、結果が判明するまで1か月以上かかった。近隣の火災被害は放水、と煙によるものであった。

*実例その3は地域活動のできる高齢女性が第一発見者ということで深夜まで入念な事情聴取を受けた。地域活動を担うということは、それなりの自己犠牲を伴う場合がある、という証左である。

*実例その3も住民同士の日常的な助け合いの限界を示すものである。

*実例その1は地域の相互扶助、家族介護の大きな限界を示すもので現在の核家族化の実情が露呈したものといえよう。息子娘や親族があっても孤立死が日常化している現状がある。

>個々人の自律による縁結び、の環境を具体的に整える時代になってきた。